あるブログ

府中在住のサラリーマンによる、日々の記録。子育て(兄と妹)/ご当地ソング/マンガ/ラジオ などのお話。記事に合わせて一曲選曲します。

記号的なご当地ソング・アート的なご当地ソング

その作品は記号なのか?アートなのか?

ジャンププラスで連載中の「2.5次元の誘惑」というマンガを愛読しています。ざっくりいうとコスプレ部の話なのですが、その最新刊の中でこんな話があります。

・作品は、大衆的になると記号になり、個人的になるとアートになる。
・作り手が多くの人に届けたいと思えば記号に近づいて、1人に刺されば良いと思うならアートに近づく。

これはなるほどなと思いました。これを、僕の趣味であるご当地ソングに置き換えて、話してみたいと思います。

記号的なご当地ソング

例えば「らっせーらー、らっせーらー」という、青森ねぶた祭りの掛け声があります。これは、とても単純化されていて誰でも再現可能、知っていればすぐに「あっ、ねぶたのかけ声だ」ってわかるものです。ある種、最も記号化されたご当地ソングかなと思います。

そこまでじゃないとしても、演歌も記号寄りのご当地ソングが多くあります。定番フォーマットで「景勝地を舞台に失恋ソング」というスタイルは無数にあります。これは、かつて多くの日本人に共感された内容だったので量産されたのかと思います。

多くの人に共感されるスタイルであれば、歌い手や作り手の感情はあまり重要ではなく、歌手がその地域に縁がある必要はありません。なので、演歌のご当地ソングは属人性がとても薄いケースが多くなります。

アート的なご当地ソング

例えば僕が「府中の風景の中で暮らしの悩みを歌った歌」をリリースした場合、世界のほとんどの人には刺さりません。家族ぐらいには刺さるかなとと一瞬思いましたが、家族からも見放されるかもしれません。それくらい誰にも届きません。僕が僕自身のために作った歌をアートと言えるかはわかりませんが、理解が得られにくい自己表現なのは間違いありません。

そこまでじゃないにしても、アーティストが自分の体験や原風景を描いたご当地ソングは、一般に共感を得るためのものではなくなります。具体的な地名が出てくるので、聞き手は自分事としては聞かず、他人の物語として認識することになります。

ツイッター上で「歌に地名が出てくると冷める」という意見をよく見るのですが、共感できない=理解不能として、アート的なご当地ソングは届きにくくなってしまうことは大いにあると思います。

どっちもどっちで味がある

記号化された作品も、アート化された作品も、どっちもそれぞれ魅力があるので、好き好きでしかないのですが、時代としてはアート化された作品が好まれるのだろうなと思っています。

好みは大きく多様化して、そもそもみんなが一緒に共感できるフォーマットは存在しません。それよりも、その人らしさが出たオーダーメイドな価値観が好まれていて、誰かのクセのある物語のほうが面白がられる可能性は高いんだろうなと思います。

歌は時代の写し鏡。

価値観も暮らしも千差万別なので、歌の描く風景も多様であってほしいと思います。作り手の至極個人的な物語を歌った歌が、たくさん出てきてくれたら面白いな。

ねぶた

ねぶた